龍馬伝に

いまいち乗れないでいる。主演の福山雅治がもつ、背の高い人に共通する?とぼけた感じは、龍馬に通じるものがある、という気がしているのだが、どうしてもその線の細さというか、強く大きな声を出したときに伝わってしまう「か弱さ」に馴染めないのかも知れない。もちろん、龍馬は、ある種の繊細さをもった人だったとは思っていて、そのうえで感じてしまうのだが。と、ここまで書いて、龍馬が感性の人であるだけでなく、まずは野性の人であり、じつは(いわゆる「学問」というものはないけれども)知性の人でもあったことを思い出した*1。そして、今のところ私が福山に感じることができないでいるものが、まさしく野性と知性であるということに気がついた。まだ二十歳前を演じているということで言えば、実年齢が倍くらいの福山にはかなり無理があるとも言えるのだが、顔だけを見ていると知性的に見えなくもないのに、演出のせいなのか何なのか、まったく知性が感じられない。演技でそのように(非知性的に)見せているのだとしたら、今後の福山に期待ができる。龍馬本は、これまでに幾冊かは読んできたが、やはり司馬遼太郎描く龍馬が、私のなかで一番強くイメージが残っている。そしてその龍馬は、いわば化けた人でもあった*2。この先、福山が、化けたあとの、野性と知性に胆力をも併せもった龍馬を、その演技力できっちり演じわけて見せるのか(野性のほうは、ちょと無理っぽい気もするが)、彼自身が役者として化けることでそれを実現させるのか。これは見物である。昨夜は、亀田弟のボクシングの試合を忘れていて見逃す。週末は、家の外回りの掃除以外(まだ落葉が続いているのである)、ほとんど惚けていた。

*1:たとえば、宮地佐一郎著『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』(『講談社学術文庫』)などからも、それは窺えるだろう

*2:この点、龍馬は大変怪しい人である。面妖な人といってもいいくらいな気がする。