風邪気味

喉の奥が腫れていて、頭が少し重い。鼻水が出る。昨日読み終えた『悪人』(吉田修一)が妙な具合に効いているのかもしれない。若い女を殺してしまう若い男の「人間」を、彼の行動を中心に描きながら、彼を取り巻く複数の人間の「声」でもって、立体的に浮かび上がらせる小説だ。ストーリーとは別に、プロットも緻密に計算され、ポリフォニー的に拵えられた構成の効果はもちろんあるのだが、それ以上に、もっとストレートに、登場人物たちの話す方言に力を感じた。土地柄、空気、そして浮かび上がってくる「悪人」像。だが、これがどうとらえても「善人」としか思えないので困ってしまう。養育してくれた祖父母に内緒で自分を捨てた母親に会う彼は、なぜそのたびに少額ながらも金をせびるようになったのか。「どちらも被害者というわけにはいかない」。若い男はそんな言葉を口にしたという。「善人」とまでいうのは語弊があるかもしれないが、それはともかく、彼はまずは「普通」の人間なのだ。生い立ちのことなどもあるが、それはけっして特殊なこととはいえないだろう。改造した白いスカイラインに乗る彼は、ごく当たり前の人間で、だからこそ殺人まで犯してしまうのだ。そうとしか思えないのである。そして、だとすると、誰もが彼であっておかしくなく、人間らしさというものが、たまたま彼という人間の姿を借りてそこにある、とでもいうしかないところが、この小説の何とも説得的なところで、どんな意味でも彼は「異常者」などではないのだ。しかしだからといって、誰も彼の行為を止めることなどできないし、認めることなどはなおさらできはしない。私たちにできるのは、彼がやってしまったことをただ見届けることだけだ。遵うべき法律に則って彼を裁いてみたところで、人間の何たるかを、少しも捌けたりできない。「苦しんでいる女を見て、性的に興奮していたのかもしれません」。残されているのは、私たちなりの、それぞれの見方による、事件の再構成だけである。そしてその再解釈というものがあるとすれば、それをする者に、行動が、実践が要求されるはずである。この認識はしかし、じっさい苦しい。いったいどう生きていけばよいというのか。殺人者の祖母が、関わりの薄い他人から、生き抜く努力に対する声援をもらい、自分の弱さを克服するために、今度は自らを援護しようとする見せ場があるのだが、それがヒントだろうか。そこには他力と自力による救済がある。希望が、それ以外に何ももてない人にとってのみ、真の希望であるように、「純愛」を、それしかない人間の「強さ=弱さ」として突きつけられるのは、辛い。そこには、最初から最後まで縮らない距離が、埋まらない溝があるからだ。弱くしかありえない人間が自分に似ているのは、哀しいものだ。殺された若い女も多面性をもった「悲しい」人間であったが、彼女はすでに生きていないことによって救われている。その彼女が憧れていたアウディA6に乗る大学生、これがまた、身につまされるくらいに「貧しい」青年で、彼は殺されないで生きていくことになる。「一生そうやって人を見下げて生きていくがいい」。処置なしのこの男が、そのままで私自身のことだといっても過言ではないくらい、私に似ていて(過去の、と限定できないところが辛いところだ)、生きていくことがしんどく思えてくるのである。しかしその友人、脚本家志望だかの青年がいい。魅力ある人物というわけではなくて、彼が、人の気持ちの「匂い」に気がつくところが、ぜんぜん私に似ていなくて、じつにいいのである。私自身は、いつ、どんなときに、それを感じたのだったか。それは就職や結婚の前のことではないはずだ。私には、そういう意味では、就職と結婚が大きな事件であった。そしてそれらは、人間の「匂い」、人生の「匂い」を忘れないために、これからも通過し続けなければならない、いわば永遠の通過儀礼なのである。この鼻の奥の重たさは、風邪を引いたせいというよりは、花粉か何かのアレルギーによるものなのかもしれない。