民主党はやはり

終わっていた。と思ったのは、今日若手議員が数名集団で離党したというニュースに触れたからではなく、先日のNHKの番組を見ていて。だから正確には、鳩山由紀夫菅直人小沢一郎の三人が終わっていたというべきか。かつて「とろいか」を組んでトップにいた彼ら三人がそれぞれに政権奪取後の民主党を「検証」するためのインタヴューに答えていたのだが、けっして過去をふり返っているせいでなく、彼らのその受け応えの姿勢・表情からまったく未来を感じることができなかったのである。だれ一人にも。はやくいえば、このおっさんたち、おわっている。そう思ったのだ。


それからやはりNHKの番組だが、「坂の上の雲」の最終回での夏目漱石の扱いには違和感をもった。大和魂を持ち出して浮かれている世間全般を揶揄するのは、典拠にも基づいたいかにも漱石らしいものなのだが、子規の妹に、私たちを−そこにはホトトギスの仲間たちが集まっているのだが−馬鹿にしているようで嫌だ、といわれて、素直に謝ってしまうのが、まったく漱石らしくない。そういうギャップを描いて何かを印象づけようとしているのだろうか。映像では、漱石がその手をついてお辞儀している妹の向こうが開け放した隣の部屋が見えていて、そこに死んだ子規の姿を映し出して、まるで漱石が直接子規に謝っているようにも見えるような演出をしていたのだが、揶揄したのは、軍人に頼らざるを得ない自分の嫉妬からだと、本気であるかに思えるような言い訳をさせていて、それも漱石らしくないのだ。漱石は、たんに庶民や女性といった「弱きもの」の視点?からの意見に対して従順な人物として刺身のつまのような存在でしかない。まあ文学士といったところで、それぐらいが関の山といったところか。


子規の妹は、友達なんだから素直に頑張れといえばよいのだと(相手の心の屈折を見透かしたかのように)漱石を諭し、少し先の場面でも、軍人も文学者もない、という言葉を口にするのだが、これらの台詞にも少し危ういもの(共同体的な、あるいはナショナルな一体感を強要するような力)を感じた次第である。そういう「素直」な気持ちで、「みんな」で先の戦争をしたのではなかったか、というのは飛躍だろうか? 伊予愛媛の人は、「坊っちゃん」であれほど自分の故郷(や故郷の人々)をコケにされて、それでも度量大きく(商魂たくましく?)たいていは漱石を持ち上げているのだが、制作者が伊予の人なら、そのあたりの意趣返しをしたくなるのも分からなくはないのだが、そういう問題ではなく、今はこの番組のような解釈・演出が妥当(な雰囲気・気分)なのだろうか。