いわゆる成績

会議。各担任の状況説明を聞いていると、今年は留年や退学が多くなりそうだ。例年以上かも。結局、救えないはずの学生を(結果的には手心を加えるというかたちで)救ってしまったのだが、それは私が来年度はこちらにいないので、落としても彼の面倒を見られないからである。担任から一年間の指導に対するご丁寧な挨拶があった。挨拶は大事である。
かの学生は、しかし、やはり留年することになるらしい。それでも彼は、よい先生に担任してもらったことを喜ぶべきである。もちろん、挨拶があったから救ったわけではないし、救ったから挨拶があったわけでもないのである。結果も大切だが過程も大切である。少なくとも彼と担任とのあいだには、次(改善)につながる教育的プロセスがあったと私は信じる。そういう挨拶をしてくれたのである。


ある本を読んでいて、ふと思った。その本は、話し言葉的な軽い調子の文章で綴られているのだが、見方や考え方については、これでもかというほど事細かに、それらをいちいち学説として(つまりは誰のどの本に書いてあるかがわかる形で)その出典を示しながら書かれているのである。
そうだ。それなら自分が授業で差し挟む話や考えについても、それが誰のどこに書いてある話なのかをきちんと示してあげること。考えなら、自分の考えと他人の考えを区別して、他人の考えの場合、その出典をきちんと紹介してあげること。
これがやっぱり大事なんです。今更だけど。学生さん達は、すべて私の考えだと勘違いしたり、あるいは、すべて誰か別の人の考えで、この人は自分の考えがないか、あってもいわないのだ、とか誤解してしまうかもしれない。今教えているのは高校生と同じ年齢の学生さん達であるが、私の気のせいかも知れないが、じっさい、教室ではそういう雰囲気なのだ。
しかし、話や考えの出典を明確にすれば、少なくとも彼ら自身でそれらの情報にアクセスできるわけで、後は彼らの好奇心次第である。教師を盲信しなくてすむし、また無闇に馬鹿にしなくてすむ。こちらも、勘違いして「オレは何でも知っている」顔にならなくてすむ。しかしこれが口頭ではけっこう難しいのだ。たぶん。文章(書き言葉)のようにはいかない。板書やプリントを併せて上手に使うとよいのかも知れない。