2013年11月21日のツイート

一昨日は授業の振り替えで123限連続で3クラスの授業の後、会議に途中から参加したのだが、若手のNくんに煽られて不毛な議論と相成った。負けはしなかったが、相手が譲らないので、落としどころなく、他のメンバーも不愉快にするだけの愚痴のようなものに終始することになった。


昔のように自己嫌悪はそれほどないが、むなしさはやはり残った。頭の回転を鈍くしないためにも、ときどきは議論が必要だが、相手をやり込めても益はない。もっともっと冷静であるべきだった。それから、相手がなぜそれほどに譲らないのかを考える余裕がなかったのも反省点。


こちらの非についてもきちんと分析できないといけない。今回の場合、Mさんのそばにいたので気づきにくかったのだが、委員が科の長に話を持って行って、案を科全体のものにしておくという手があったのかも知れない。そのことに思いが及ばなかった。誰も動かないのなら、自分から動けばよいのだ。


だれがそれを訊いているのか。だれがそれをより良いものにしようとしているのか。その主語のない今回の聞き合わせでは、私たち委員の立場も曖昧であり、提案者である一教科の面目もなかった。その「誰が」は、委員会でいいのではないか、というのが、私の個人的な意見であったが、もちろん科でもよかった。


とにかく一教科が責任を持つ範囲を超えた提案であり、もともとは校長からの要請で、主事宛に出したものだった。それなら主事が委員会として受ければよい。そのうえで、委員会の案をよりよくするために各科に意見を頂戴したい、というのなら、だれも文句はなかったはずだ。だが、そうではなかった。


主事は引き受けなかったし、主事のサブのNくんも自分たちが受けることを頑なに拒んだ。こちらの科で、科として案を出せ、というのだろう。これははっきり言ってもらえなかった。しかし、それなら主事が、提案させられた一教科の代表とこちらの科の長に話をつけて、全体の案にするよう要請してくれればよかった。


しかしそう思ったのは、前の職場で私が科の長をしていた時の経験からなのだが、今から思えば、そのときの主事に私は随分甘えていたのだ。いろいろ主事のほうから気を使ってくれて、私を立ててくれるかたちで話をしてくれることが多かったのだ。ここではそうではない。


主事と科の長とのあいだに、また主事とMさんとの間にさえ、「距離」がある。それは私には遠慮というようなものではない、ネガティブな距離のように思えた。諦めというようなものだろうか。これではスムーズにいかないな、と感じた。これはシステムの問題ではなく、人間の心理的距離の問題だ。


組織において、システムがどれほど完備されていても、そこに関係する人間同士に距離があれば、ミスや滞りは起きやすくなる。逆に言えば、そうした人間同士の距離があるところでも(それを前提にして)、ミスや滞りが起きないようきちんと機能するようなシステムが確立されていなければならないのだ。


いろいろ思うところの多い、という意味では収穫のなかったわけではない失敗であった。会議における態度については、今後はつねに冷静でありたいものだ。疲れているときはとくに用心、である。はぁ。


つねにフットワークを軽くして、動かないといけない。居つきの姿勢になってはいけない。自分を知り相手を知るためにも、軽いステップは必要だ。


さて、仕事。昨日作りかけた試験問題を仕上げてしまおう。それからもう一つ別の試験も。