タル・ベーラ監督『ニーチェの馬』

を観てきた。予想に反せず、画面に目を釘付けにされながら、しかし始まりの以前についても、終わりの以後についても一切説明がなく、描かれる父と娘の六日間のうち、一人の男と馬車に乗った集団の訪れが計二度あるものの、とくに展開らしきものもない映画だった。通路を隔ててすぐ隣りに座った中年男性が、はっきりそれとわかるため息を何度もつく。自分がついているような気になって、その度に恥ずかしいような、いうにいえない思いをしていたが、やがて気にならなくなった。
しいて訪問を展開と結びつければ、井戸の水を勝手に飲んだ集団のひとりがお礼にと書物*1を置いていくのだが、その翌日、それが四日目にあたるのだが、井戸の水が涸れてしまうことだろうか。いったんは家を捨てようとした彼らは、しかし行く当てがないのか、再び家に戻ってくる。そしてついに六日目に父と娘は火を、あるいは光を失い…という話である。映画に七日目はない。吹き荒れてやまない強風(とその轟音)と淡々とした人事(とそれらを支える音楽)の「反復」*2にずっと圧倒され続けの二時間半超、正直大変疲れる映画だった。
起床。着替え。水くみ。馬の世話。炊事。食事。家の外の音を聞き、窓の外を見ること。家事。就寝。暗示されているのは終末であろう。それでも人間に尊厳はある、のだろうか。だとすればそれは、自然にうち勝つことや神の試練に耐えきることにあるのではないのだろう。ただ生きる、生きようとし続けること。そういうことなのかもしれない。
認識することは大切なことである。生き物は、必ず衰え死ぬ。理不尽な中断もあるだろう。しかしそれは個体、単体でのことである。生物はまた、世代として続くこと、つなぐことによって生き物である。それも自然であり、当面の明るさである。終わることが始まることでもあるうちは。それさえも終わるとき、しかしそのときについて考え悩み、暗くなる必要が、今あるのだろうか。おそらく生き物は、そのときにも、ただ生きようとするだけである。

*1:この書物がニーチェの著作なのかどうか、私には分からなかった。

*2:したがって、それらはほとんど同じであるが、全く同じではないのである。