『ホーリー・モーターズ』

@梅田ガーデンシネマ。久しぶりに映画を観たって感じ。(以下ネタバレ)


これは夢の映画であり映画の夢を夢見た映画なのだろう。
昨日見た『先祖になる』と真逆の映画だ。
個人の存在は小さくなり、行為(の意味や強度)は映像としての美しさに代替されている。
これまでのたくさんの映画の記憶のなかを男は移動し続ける。
トゥルーマンショー」「美女と野獣」「オペラ座の怪人」「世にも怪奇な物語」「めまい」...
それが「役割を演ずる」という男の仕事であり、演技こそが彼の人生なのだ。
(しかも同業者たちが他にも半端なくいるではないか。)


ラスト近くに衝撃的なシーンがある。これをアレゴリカルに解釈しようという気にもならないほど、あからさまな喩になっている。笑うか、震撼してしまうかで、その人の人生に対する姿勢がわかるところだ。
このチンパンジーの妻子をユーモアでもアイロニーでもなく、素で受け止めようとしていると、ラストでこれは日常に戻るはずの女ドライヴァーがとどめをさすかのように仮面をかぶり(ここまではよい)、車庫に戻ったリムジーンたちが互いに愚痴をこぼし合うのだ。


この車たちのやりとりがやや長く、機械の人格化という別のテーマが、しかもファンタジー映画風に、唐突に持ち出されたように感じ、映画全体の構成上、効果的には思えなかった。あるいは、そのことで実は主役はタイトルどおり「聖なる車たち」の話だとわかりやすくしようとしたのだとしても。